引き写し 小川一水『天冥の標Ⅸ ヒトであるヒトとないヒトと PART2』 p206

「ものを持てないの」
 気品のある銅色の髪とうれいを帯びた眼差しを称えられていた、若年のころのエフェーミア・デル・メリル・ランダルーゼは、親しくなった人にそう言うことがあった。ほとんどの場合それは相手を戸惑わせた。そのころすでに彼女は常に車椅子を用いており、腕は動くが足で歩けないことを明らかにしていたからだ。
 ものを持てない、という言葉を聞いた相手は、幼いころ彼女の脊髄を傷めたエアロックでの挟まれ事故の影響が、脚だけではなく腕にも表れたのかと心配した。また、人によっては、そのように思わせる彼女なりの冗談なのかと、ちょっと予想外れな解釈をした。必ずしも全く見当外れではなかった。エフェーミアにも親しい人の前で冗談を言う年頃があったのだ。しかしその件に限っては冗談でも何でもなかった。
 ただ一人、違う答え方をした男がいた。
「私もそう感じるときがある。君はどんなときなんだい」
 針葉樹を思わせる長身で、金灰色の髪をいつも丁寧に後ろへ撫でつけていた、物静かな紳士。《救世群ラクティス》の名家同士の夕食会で、彼は手料理を振る舞ってくれたあと、そのことについてエフェーミアに訊いてくれた。四十分の会話のあいだに、この人は私と同じところがいくつかある、と感じた。
 食事会の半年後、エフェーミアは数多い求婚者たちの中から、あの長身の紳士、ノルベール・シュタンドーレと結婚した。
 婚姻期間はまずまず幸福なものだったが、特殊な《救世群ラクティス》社会の中に限った条件のもとでであり、しかも、ものを持てないことには変わりはなかった。
 セツルEにある議長ヤヒロの邸宅に近い、暖かく湿った快適な邸宅に住んで、労母や武辺や男や女の奉仕を受ける彼女が、ものを持てないという。それは普通の人間にとっては理解しがたいことだろうから、口には出さなくなっていたが、最初にノルベールと話した思いは変わらなかった。
「ここにお土産のリンゴがあるでしょう、シュタンドーレさん」
「あるね」
「まだ手渡していないからこれは私のもののはずです。けれどこのリンゴをあなたは手に取って、奪うことができる。私のものであろうがなかろうが、あなたはそれができる。そのとき、『リンゴは私のもの』だという取り決めに、どんな意味があるのですか」
「あなたのものだという取り決めがあるから、現に私はリンゴを奪っていない。取り決めには意味があるのです。しかしあなたの気持ちはわかると思う。あなたは取り決めの効力の限界が不安なのでしょう」
「あなたはどんなときに思うの?」
「より大きな所有者を感じるときに」
「とおっしゃると?」
「私たちはリンゴをあなたの所有から私の所有へ移そうとする。しかしそのリンゴがあるこの屋敷は、連絡会議の権威のもとでいつでも他の者に貸与されうる。また私たちは連絡会議に関与してセツルEの資源の分配を決める。しかしセツルEのすべての資源は、巨大な太陽系経済の動きによってたやすく増減される。そこでは、私人がものを持っている、ということにどんな意味があるのでしょう」
「それは外側のお話ですね」
「そうです。けれども」
「けれども、同じ話ですね。人がただ『所有する』と取り決めているだけのものは、たやすく奪われるし――」
 少女はリンゴのへた﹅﹅をつまんで、青年のてのひらに載せる。
 そして渡したばかりのリンゴを、両手を伸ばしてつかみ取ろうとする。
「己が肉体で、実力で、全霊で『所有する』と示しているものであっても、時にそれは、奪、奪われっ」
 青年の細い指は強くリンゴに食いこんで放さない。しかし少女は無理やりそれを引き、ぐじゅぐじゅと果肉を潰しながら奪い取る。
「奪われる。ものを持つとは、はかない取り決めです」
「カンザンなら――カンザンというのは私の親しい軍人ですが――それは力の問題に還元されるというだろうな。しかし、あなたの言うこともわかる。なんとなくだが。あなたは、人が奪われるべきでないものがわかっているのかもしれない」
 席を立ってタオルを持ってきたノルベールが、うなずきながら手を拭いてくれた。
 ロイズ非分極保険社団の強力な指に締めつけられていく二十年、思いは変わらず生き続けた。
 そして、最後の数年とそれに続く変転の際にも。