引き写し ぺ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳) p100より

時は流れた。だが、時はいつも前に流れるだけなのか? 今、この文を書いている瞬間、私をとりこにしている思いがある、私たちが生きている始まりもなく終わりもないこの時間の中で起きたすべてのことは、起きるすべてのことは、すべての者の過去と未来は、すべての者の記憶と忘却は、永遠に反射する無数の鏡の中の絵が結局一つでしかないように、それはある意味、同時に起きた一つの事件なのだ。であるならそれは、時は古典的に流れず、ひたすら自らの存在と意味を増幅するという意味だろうか。もしかしたらそれはいつか本で読んだが最後まで私が理解できずに終わった単語、超越であるとか無限大といったもの、永遠の容積を持つ銀河たちが無限大に反復される宇宙の実体だろうか? 私はしばしば想像するのだが、それは、私たちを存在させている普遍存在とはただ一つ、ある唯一にして巨大な感情であって、私たちという物質的な個人は抽象的な時間とともにその感情の原子系を構築するだけだという思いだ。