引き写し レイナルド・アレナス『真っ白いスカンクたちの館』(安藤哲行訳) p82より

 彼女は廊下の窓のところで――真昼は鋭い音を立て、真昼はすべての輪郭をむさぼっている――たたずんでいた。そうして、窓枠に肘をついて――真昼は破裂し、真昼は彼女の顔を光でおおいつくしている――あの大きな音を、大釜と滑車が立てるあの絶え間のない轟音を聞きはじめていた。バウディリオはもう彼女を棄てていた。エル・レページョ・デ・エウフラシアで娼婦と踊っているのを見た者がいた。だが、ことをそんなふうに考えるにはそれで十分だったのだろうか?たったそれだけのことで彼が姿をくらましたと言えるのだろうか?ほかにもあった。彼女自身でさえ見抜けなかったものが、彼女を苛み、打ちひしぎ、ののしっているものがそこにはあった。起きること、目を開けること、そしてまばゆい光がもう入り込んでいるのを、もう入り込んでいるのを見ることがあった。そこには、整列した、詳細にわたる、退屈で無駄な、計画された一日のすべての時間がもうあった。部屋の端から端まで歩くこと、待つことがあった。だが、すべてがうまくいくとしても(そこから苦しみが、どこか突きとめられないところにある不快感が始まっていた)、それがどうしたというのか、いったい何ができるのか、そのまばゆい光に対して、その恐怖感に対して、なんのためになんのために、と思う気持ちに対して、あるいは、すべての本物と同じように説明のつかない、ときにはコバナツルウリクサの黒っぽい、動かない枝葉を見るだけで引き起こされる耐えがたい淋しさに対して。たとえ結婚して(もう十三歳だった)、子どもを、家を持ち、そして静寂(さらにずっと先のこと)が訪れるとしても、それがどうしたというのか。彼女は、あふれんばかりのまばゆい光の真ん中で、あの暑さ、あの轟音、あのかしましい人たちの真ん中で、恐ろしい別のまばゆい光や逃れられない別の轟音の大きさを感じとっていたのだから。何だろう、それは何だろう?……。そして、八月が雨とともにやって来た。そして雨は石綿セメントの屋根でパシッパシッと音を立てていた。そして雨水は樋を流れ、地面を水浸しにし、通りを埋めつくしていた。その流れに紙やオレンジの皮を投げる子どもたちがいた。そして耐えがたい感じがふくらみ……。そしてまた太陽、砂埃、クリスマスの到来、それを口実に、誰かが、ときには皆が、彼女自身もまた、酔っぱらい、泣き、ののしり合う……。八月が戻り、果てしないまばゆい光がいまは空から降りそそいでいる。そう、たとえ結婚するとしても。家を、子どもを持ち、そして静寂(さらにずっと先のこと)が訪れるとしても、それが何の役に立つのか。何ができるのだろう、あの空に対して、あの過剰な光に対して。何ができるのだろう、とても白い、とても鋭敏な、とてもかけ離れたところにいる彼女自身を含めて、すべてが腐ってしまわないように、いつまでも腐りつづけることにならないようにするためには。何ができるのだろう、世界の、幸福と思われているものに対して、あの永遠の感じに対して、あの欺瞞や不満の感じに対して、この日々の別のまばゆい光、この日々の別のギリンダンより少し向こうにある、定まった、素晴らしい天気の揺るぎない叫びに対して。